こんにちは。モウカクです。
今回は、先日国会で成立した改正子ども・若者育成支援推進法、いわゆるヤングケアラー支援法に関する個人的な思いを書いてみたいと思います。
私は親が精神疾患を患ったことに伴い、10代前半から親の介護に携わり始めたヤングケアラー経験者です。そして携わり始めて30年強、未だに現役のケアラーでもあります。
そんな私が、この度のヤングケアラー支援法成立について率直に感じたことを色々と書いてみたいと思います。
賛否さまざまなご意見あるかと思いますが、よろしければ最後までお付き合いください。
それではいきましょう。
法制度の成立により、支援制度の整備拡充が期待される
2024年6月5日、改正子ども・若者育成支援推進法が参議院本会議で可決・成立しました。
これにより、日常的に家族の世話・介護を担っているヤングケアラーへの支援を国や自治体が行うことを明文化されました。
これまでヤングケアラーの支援については地域・自治体によって差があると言われ、相談窓口や家事の一部についての支援制度などを設けている自治体もあれば、特に何の取り組みも行っていない自治体もあり、対応にばらつきが生じているといわれています。
此度の改正子ども・若者育成支援推進法の成立により、法的根拠が示されたことで地域・自治体での支援制度の整備推進が期待されるものと思います。
私個人としては、今回の改正子ども・若者育成支援推進法の成立はとても意味のあることだと思っています。
まずヤングケアラーの定義が法的に示されたこと、そして支援の対象として明確化されたことで、少なくともこれまでよりはヤングケアラーの抱える問題に目を向けてもらえる機会は拡充していくのではと勝手に期待しています。
ただ経験者としては、もう1つきちんと考えなければいけない観点があるのではとも思っています。
そのことについて次の項で書いてみたいと思います。
介護・ケア対象者に対する認識の「温度差」
ヤングケアラーを経験してきた1人として感じること、それは「家族の介護・ケア」ということ自体にもっと理解のある社会であってほしいということです。
一般的に「介護・ケア」という言葉から連想するのは、年老いて身体が衰えてきた家族の身の回りの世話をしている場面を思い浮かべる場合が多いと思います。ただ、介護・ケアの実態にも色々あります。身体疾患者のケア・精神疾患者のケアなど、介護・ケアが必要な場面は他にも沢山あるわけです。
私はヤングケアラー時代から身体疾患を患った家族、精神疾患を患った家族の両方の介護に携わってきました。
私が介護に携わり始めた約30年ほど前の話になりますが、あの頃は正直に言って、身体疾患者の介護をする時と精神疾患者の介護をする時では周囲の反応が明確に違いました。
以下のような感じで。
身内でさえも、身体疾患を患った家族への扱いと精神疾患を患った家族への扱いが明らかに違ったのです。
極端な言い方ですが、精神疾患を患った家族についてはその存在を認めず否定しているかのようでした。
家族だけでなく、周りの大人達もだいたい似たような反応でした。
例えば、同世代で発達障害をもっていた近所の子がいれば、
あの子は知恵おくれだから、関わっちゃダメ!
あの子と遊んでると、頭悪くなるわよ!
などと平気で近所の親同士で言い合っているのを耳にし、
近所に住んでいた同級生の親が精神疾患を患ったときには、
あそこの親は頭おかしくなったから、遊ぶのはやめなさい!
と周りの大人達から言いつけられたりしていました。
今考えれば、随分とひどい話です。
身体疾患にしろ精神疾患にしろ、誰も好きこのんで病気になった訳ではない筈です。なのに。
身体疾患の場合は「大変だね、大丈夫?」と概ね同情的なのに、精神疾患の場合は「あっ…(関わるのはやめよう)」みたいな感じで距離を置かれてしまっていたのです。
この違いは何なのか?
年齢を重ねるたびにこの疑問は大きくなっていきました。そして、自分の中で結論を見つけたのです。
「身体疾患は誰もがなり得る仕方のないもの。精神疾患は普通はならないもの。だからなった人は普通ではない。」
このような認知がいつの間にか私達の中に根付いているのです。理由は分かりませんが。
そして、この認知によって身体疾患者と精神疾患者に対する扱いを分けているのだと考えるようになりました。
では、何故精神疾患者は普通ではない、という認知が根付いてしまったのか?
それは、精神疾患者特有の病気の症状が1つ要因ではないかと思っています。
精神疾患者の症状として見られるものの一例が以下のような症状です。
幻覚・幻聴などによる徘徊や奇声、頭の中に別の世界を作り上げ、その世界の中で生きているような言動を見せることでの意思疎通困難…
このような症状を目の当たりにすると、言葉は悪いですが「自分とは別の世界の生命体」を見ているような感覚になり、いわゆる未知との遭遇による防衛本能から関わりを避けようとするのではないかと。
何も精神疾患者に限った話ではありません。身体疾患者についても、先天性の病気による変形症(トリーチャー・コリンズ症候群など)の方や四肢の部位欠損の方などに出会った際、少し距離を置いて対応したり警戒したりする人は一定の割合でいると感じます。(実際、私の周りの人もそうでした)
でも改めて考えてみてください・・・1つ質問をしたいと思います。
発達障害を患った人となぜ関わってはいけないの?
関わったら本当に自分も頭が悪くなるの?
それ、証明できます??
おそらく、誰も証明できないと思います。だってそもそも関わろうとしてないんだから、分かりようがない。
つまり、何の根拠もないのに「人間とはこういうものだ」という概念を勝手に作り上げ、その概念から外れてしまったものは認めずに否定する。。。
そんな脆弱な思考ロジックで形成された認知が受け継がれてきた結果、一部の方々が不当な扱いを受けてしまうのはヘンだと思います。
大分極論を言ってるように見えるかもしれません。ですが、実際に私が感じてきたことです。
私も10代前半から家族の介護に携わって30年強、イヤな思いは数え切れないほどしました。未だにあります。
精神疾患を患った家族の症状は思い出してもひどいものです。そのまま消えてしまいたいと思ったこともあります。
●A4のノートにびっしりと書き綴られた支離滅裂な妄想日記を手渡され、読んで感想を教えろと懇願され…
●音楽フェスに出ることになったから練習だと深夜に大音量で歌いだしたり…
●悪者がいるから成敗しに行くと家を飛び出してしまい、探す羽目になったり…
また、周りの大人達からもイヤな思いをすることも数え切れません。未だにあります。
例えば、学生の頃に近所だった家の人と偶然会った時に言われた言葉が以下の内容です。
オマエんとこの親、どうなった?
元気にはしてますけど、病院にはいなきゃいけない状態で・・・
ふーん。ま、この先も出れねーんだろうな。じゃな。
中々にデリカシーのない事を言ってくれちゃってますが、これも悲しいかなリアルです。
上述してきたように、介護・ケアに関する個人個人の意識には相当の温度差があるなと感じています。
多様性が叫ばれる時代。個人ベースでの意識づけが肝要。
ごちゃごちゃ書いてしまっていますが、何が言いたいかというと、個人ベースでの病気に対する認知はまだまだ偏見が根強いのではないかということです。そして、その認知のもとに発する言葉を若い世代、子供たちは敏感に感じ取っているのです。
どういうことか。介護の内容によっては、ヤングケアラーたちが「介護してることを口外してはダメなんだ」という認知になる土壌が今も根強く残っているのではないか、ということを考えて欲しいのです。
せっかく支援制度を整備する動きが広がったとしても、肝心の当事者たちが声を上げにくい状態のままだったらあまり意味を成しません。
現代はダイバーシティ、多様性が叫ばれる時代です。
ビジネスシーンなどでは特に「個の発想、多様な価値観を尊重しましょう」と謳われることが多いですが、個人ベースで落とし込んで考えた場合には、まだまだ偏った視点で物事を捉えていることも多いと思います。実際、書いている私自身も偏見のカタマリです (・。・;
なので、個々の日常生活を過ごす中でも多様性を意識・尊重して過ごすことを少しずつでも意識することで、結果的に「色々な人がいるんだな」と多様性を受け入れる土壌に繋がっていくのではないかと思うのです。
それが、結果的に「多様な人を受け入れることが出来る社会」への近道なのでは、と個人的に思うのでした。
せっかく動き出した「ヤングケアラー支援法」の整備の動き。
この動きと併せて、個人ベースでの多様性の尊重についての啓蒙も働きかけていただけるとより良いのではないかと素人考えですが感じました。
以上、ごちゃごちゃ書いてしまいましたが、ヤングケアラー支援法成立のニュースを受けて、個人的に感じたことを書き綴らせてもらいました。長文乱文失礼しました。
それでは今回はこの辺で。長々お付き合いいただき有難うございました m(__)m
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