PR

続・マイノリティな生き方で良いじゃないか!

考え方・捉え方
本記事内には広告が含まれています。
スポンサーリンク

こんにちは。モウカクです。
今回は前回の記事の続編みたいな内容です。長年マイノリティ側の選択をし続けてきた私が陥っていた悩みや壁、どう向き合ってきたのかなどについて、私と似たような境遇の方々がどのくらいいらっしゃるかはさておき、綴っていきたいと思います。

よろしければ最後までお付き合いください。それではいきましょう。

スポンサーリンク

強い自我・自己愛を持ちながら、自己否定し続けた「矛盾」

前回の記事で、幼少期の頃から私の興味・関心・趣味嗜好が当時の環境下では「マイノリティ」側だった(周囲が野球・サッカーで盛り上がっている中、相撲中継・馬術中継に夢中になっていた等)という事をご紹介しました。
幼少期の頃より「自分自身の興味・関心・趣味嗜好がちゃんと確立していた」とも言えると思います。ただ、その今興味・関心・趣味嗜好が家族や同級生などの周囲と環境と同じではなかったため、気付けば周りの顔色を気にするようになり、自分が好きなものを周りに対して発信することはしなくなっていました。でも自分の興味・関心・趣味嗜好は決して変わらなかったのです。

自分の興味・関心・趣味嗜好が決して変わらなかったということ、これは言い換えれば自分自身に対する強烈な自我・エゴがあったことの裏返しだと言えると思います。変な言い方かもしれませんが、私は少なくとも自分の興味・関心・趣味嗜好に限れば自分に自信があったし、自分が好きで自己愛に溢れていた筈なのです。

ただ家族や同級生など、周囲との温度差を徐々に感じるようになっていった・・・今振り返ると、ここが1つターニングポイントだったのではないかと思えるのです。

モウカク家族
モウカク家族

・その服は似合わないからこっちの服にしなさい
・周りがこうしてるんだったらモウカクも合わせた方が良い

同級生たち
同級生たち

趣味変わってるよね~
・え~、そんなの好きなの?話合わないじゃん!

上記のような声と対峙することが増えていった時に、当時の年齢(5~8歳くらい?)で「自分はこうだから」と自分の本心・本音を大事にして貫き通せる人は凄いと思います。周囲の声に惑わされることなく、自分の夢・やりたい事に真っ直ぐ進んでいって成果も出すことでしょう。ありのままの自分自身を認めてられているわけですから。無意識のうちに自己受容感・自己肯定感が高まる言動を取れているとも言えます。

一方で私自身はと言えば、そうではありませんでした。
周囲との違和感を感じる日々を過ごすうちに、気付けば周りの顔色を気にするようになり、「自分は間違っているのかもしれない」「自分が好きだと思うものを表だって言うことは控えよう」というマインドが醸成されていきました。
自分自身に強い自我や自己愛がありながら、周囲の声に圧されて自分の本心・本音を否定し続けるという矛盾、ねじれ現象が自身の中で生じていたのです。

今でこそ上記のような状態だったなぁと俯瞰で振り返ることも出来ますが、当時はそんな自分自身への理解が深いはずもなく、毎日を過ごしていました。そんな日々が積み重なるとどうなるか、、、次項でご紹介します。

自分自身に対する嫌悪感・自分以外の人も素直に認められなくなる

自分自身に強い自我や自己愛がありながら自己否定を続ける日々を送っていた私。
結果的にどうなったかと言うと…

自分自身に対する嫌悪感

端的に言えば、自分自身が嫌いになるということです。いや、正確には「自分を好きでいる自分自身が嫌い」だったと言えるでしょう。
いつからそのような感覚になっていたかは覚えてはいませんが、小学校の学年誌だったか卒業文集だったかで、「自分の事が好きか嫌いか」みたいな質問があり、その質問に対して「嫌い」と回答した事ははっきりと覚えています。
理由は分かりません。ただ「絶対に好きと回答するべきではない」という意識が強く働いたことは記憶にあります。

周囲と比べて自己否定を続けているうちに、無意識的に自分自身のことを「嫌い」という認知にしてしまったのでしょう。それ以降、何回か「自分の事が好きか嫌いか」を回答する機会もありましたが、全て「嫌い」と回答してきました。
その影響か、歓送迎会や合コンなどの場面での自己アピールタイム、あれ超絶苦手というか大嫌いです(苦笑)
以前の記事で歓送迎会や合コンの類が苦手…と触れた事がありましたが、この自己アピールタイムが耐えられない、というのも結構なウエイトを占めています。

今改めて考えれば、幼少期から周囲との温度差をずっと抱えて生きてきたので、

モウカク
モウカク

どうせ理解されないのだから、アピールなんかしたくない

・アピールしたところで、却って傷つくだけだ…

という思いが無意識的に働いていたのでしょう。
結果、正体とはおおよそかけ離れた表面上だけを取り繕って自己アピールとし、その場を凌いできた私。
周りが楽しそうな空間の中、虚像で振る舞っている自分に嫌気がさし、また嫌いになっていくという悪循環…orz

他に関連することで言えば、「ナルシスト」という表現も好きじゃなかったです。
他の人が「ナルシスト」かどうかは全く構わないのですが、こと自分のことを「ナルシスト」と言われるのはすごく抵抗がありました。
強い自我・自己愛が自身の中にあることを認めたくなくて、また見透かされたくなかったのだと思えます。

自分以外の人も素直に認められなくなる

自分自身に嫌悪感を抱くだけではなく、自分以外の人達も素直に認めることが出来なくなります。
私の場合、特に自分より目上の方々(家族・部活の先輩・職場の上司や先輩)に対してその傾向が強く出ていたような気がします。

・○○の場合は●●しなさい
・△△の場合は▲▲してはいけない

・□□の場合はみんな■■しているから倣いなさい
・☆☆した方が良いと思うけど

こういう感じの会話になった時が特に駄目でした。
目上の方々との会話の場合、研修・指導といった類で会話する場合が往々にしてあります。その場合は上記のような物言いになるのはある種自然ではあるのですが…
なんでしょう、幼少期から自分の本音をしまい込んで過ごしてきた反動なのかもしれませんが、無意識のうちに、「●●しなさい」、「▲▲してはいけない」というような類の言葉を聞くと、

モウカク
モウカク

この人も自分を認めてくれないんだ!

みたいな認知が形成されていたのだと思います。
一旦そのように認知してしまうと中々厄介です。自分の中で認められないのです。頭の中では理解しているつもりです。正論や真っ当なことを言っているのだと。ただ、心の奥底で「認められない」と抵抗している自分がいるのが分かります。
勝手な言い分ですが、「自分のことを認めてくれない人間のいう事の全部を認めるわけにはいかない!」本音はこんなところだったと思います。

言い換えれば、他の人との会話で自分自身のアイデンティティが失われるのではないかという恐怖を抱いていたとも言えます。要は他人の評価に過剰に依存した、他人軸の生き方になってしまっていたという事です。

まとめ ~自分自身と向き合って気付いたこと~

上記でご紹介してきたように、かなり拗らせてしまっています。
こんな私が今までの自分自身の人生と向き合い、時間は掛かりましたが改めて気付いたこと。それは・・・

●自分らしい生き方で良い(マイノリティで良い)
●自分自身を認めて良い
●他の人の会話でも自分が受け入れられる部分だけ受け入れれば良い

上記になります。自己啓発や人生改善目的のコーチングなどでもよく指導される内容ではありますが、自分自身が長い期間向き合って辿り着いた結論とも合致するので、非常に腑に落ちる内容です。
とは言え、こんな風にエラそうに書いていますが、私自身もまだまだ改善途上の身です。
毎日、毎時間自己否定しそうになりますし、他の人との会話でも受け入れられないと感じてしまう事は未だにしょっちゅうあります(苦笑)

ただ以前と違うのは、上記の観点に気が付いているということ。これだけでも全然違います。
たとえ自己否定しそうになっても、他の人との会話が受け入れられなくても、「自分らしくいれば良い」、「受け入れられる部分だけ受け入れれば良い」と考える向きを変えることが出来るからです。

劇的に変化するものとは思っていません。日々自己否定しそうになる自分、他人の意見を受け入れらない自分がいることを認めつつ、「現状はこうだ。自分らしく歩もう。受け入れられる部分だけ受け入れよう」と都度意識しながら過ごしていくことが大切なんだと感じています。

冒頭でも書きましたが、私と似たような境遇を歩んできた方がどの程度いらっしゃるかは分かりませんが、何らかの参考になれば大変嬉しく思います。
それでは今回はこの辺で。長々お付き合いいただき有難うございました m(__)m

コメント

タイトルとURLをコピーしました